椅子やデスクといった職場の什器は単なる物理的道具ではなく、人間の作業効率、身体的健康、心理状態、さらには倫理的行動にまで深く影響を与えています。本報告では、これらの関係性について歴史的背景から現代のワークスタイルまで幅広く考察し、Andy Yapの研究で示された「物理的環境が人間の行動に与える影響」について詳細に分析します。
椅子・デスクの歴史的・社会的意味
権力と地位の象徴としての椅子
椅子は長い歴史において単なる座るための道具ではなく、権力や社会的地位の象徴として機能してきました。世界の多くの文化圏では床座が一般的である中、椅子に座ることは特権的な行為でした。
中世においては、椅子は王位についた者が座る権力の象徴であり、長い間、支配層の持ち物でした。ヨーロッパにおいても一般人は長らく台や箱といった簡単な造りの日用家具に座っていたのに対し、特権階級は専用の椅子を所有していました。王は玉座、貴族の女性は肘掛けのない椅子、それ以外の人々はスツールというように、椅子には身分階級との関係が明確に定められていたのです。
椅子の民主化と意義の変化
1851年、ミヒャエル・トーネットが曲木の技術を完成させ椅子の大量生産への道を切り開いたことで、椅子文化は大きく変化しました。椅子の普及は「椅子に座る権利の一般化」、すなわち特権の均一化であり、それは社会の民主化を象徴するものでした。
現代では椅子の象徴的意味はさらに進化し、例えばニューヨーク国連常任理事会のための「イーストリバー・チェア」は、男女平等や民主主義、マイノリティの象徴としてのメッセージ性を持つアート・オブジェクトとしての側面も持つようになっています。
椅子・デスクと作業効率・快適性の関係
パフォーマンスに影響を与える什器
オフィス環境において、什器は作業効率に直接的な影響を与えます。ある調査によれば、ワーカーが業務パフォーマンスを上げるためにオフィス環境で重要なことを問う調査では、2位デスク・3位イスと『身の周りの什器』が多く挙げられています。
デスクワーク環境の充実は仕事全体の質に影響し、デスクワーク環境への満足度が高い人ほど、働きがいや自社への愛着が強い傾向にあることが分かっています。デスクワークメインのワーカーは、オフィスチェアで1日の約3分の1以上を過ごすため、自分にフィットしないオフィスチェアは身体的支障をきたす可能性があります。
https://www.telwel-east.co.jp/mailmagazine/work_style/es_up
新しいワークスタイルと什器
近年では、立ち姿勢でも仕事ができるスタンディング・デスクの導入により、座っている時間を短縮できた職員は疲労感が少なく、より集中できるという研究結果も報告されています。英ラフバラ大学の調査によれば、昇降式デスクを使用した職員は座っている時間が1日あたり82.39分短縮され、筋骨格系の問題が改善し、不安が軽減し、生活の質が向上したことが示されています。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45822878
椅子・デスクと身体的健康
座り心地と体圧分布
椅子の座り心地に関する研究では、座面と背凭れ面のバランスが座り心地を決定する重要な要因の一つであることが明らかにされています。また、時間経過に伴う座り心地評価では、座面の面積変化が大きな椅子ほど座り心地評価が低いことが示されています。
心理評価と体圧分布を用いた長時間実験における椅子の形態による座り心地特性
姿勢とその影響
常に座った姿勢でいることは健康を害する可能性があり、心臓血管の問題や糖尿病のリスクを高めるおそれがあります。英国心臓基金の2015年の調査では、平均的な人は会社にいる9時間のほとんどを座って過ごしていることが分かっています。
高さ可変デスクを使用した研究では、身体違和感や下腿のむくみを軽減するためには、10分から30分の立位姿勢の導入が効果的であるという結果も得られています。
テレワーク環境における椅子の重要性
テレワークの普及に伴い、自宅での作業環境の整備も重要な課題となっています。テレワークは効率的で自由という利点がある一方、運動不足や姿勢の崩れによって体調面に支障をきたすリスクもあります。
多くの人がダイニングチェアやソファ、床に座ってローテーブルで作業するなど、長時間の仕事に適さない環境で作業しているケースがありますが、こうした環境では正しい姿勢を維持できず、体調不良や生産性低下につながる可能性があります。
椅子・デスクが心理と行動に与える影響:Andy Yapの研究
権力感と行動変化
マサチューセッツ工科大学のAndy Yapの研究によれば、椅子やデスクのサイズ、そして座る姿勢が人間の心理状態や行動に大きな影響を与えることが明らかになっています。特に大きな椅子や広いワークスペースで「ゆったりした姿勢」をとることで、人は「権力を持ったような感覚」を覚え、それが行動にも影響を及ぼすことが示されています。
実験結果の分析
Yapの実験では、ゆったりした姿勢をとらせた参加者の78%が、実験者が意図的に支払いすぎた謝礼の過払い分を指摘せずに受け取ったのに対し、窮屈な姿勢をとらされた参加者では38%にとどまりました。さらに実地調査では、運転席のサイズが平均より大きい車の運転手は二重駐車などの違反行為を行う確率が高いことも判明しています。
Yapは「大きなスペースで体が自然にゆったりした姿勢をとることで、強い権力を持ったような感覚が生まれる」と説明しています。この感覚が人の判断や行動、特に倫理的な意思決定に影響を与えると考えられています。
権力と個人特性の相互作用
興味深いことに、権力を得たという感覚はパーソナリティを強化する働きがあるとYapは指摘しています。つまり、元々不正直な傾向がある人はより不正直に、元々正直な人はより正直になる可能性があります。権力そのものは中立的であり、「原子力のように、良いことにも悪いことにも使える」とYapは述べています。
文化的影響
この現象には文化的な差異も存在する可能性があります。手を頭の後ろで組むといった姿勢は、東アジアの文化では謙遜の価値観と相容れないため、必ずしも権力感につながらない可能性があります。ゆったりした姿勢の効果は多くの文化で見られるものの、特定の文化的背景によって影響が変わることも示唆されています。
特別な支援が必要な人々のための椅子・デスク開発
バリアフリー対応の進化
重症患者や高齢者、身体障害者にとって、適切な椅子や移動支援システムは日常生活に不可欠です。例えば、電動車椅子に搭載可能な自律走行を実現するナビゲーションシステムの開発など、技術革新によって支援の質も向上しています。
リハビリテーション支援としての椅子
高齢化社会においてリハビリテーション需要が増加する中、椅子に座った状態で足部に装着し、足関節の動作訓練を可能にするリハビリテーション支援システムなど、椅子を活用した医療・介護支援技術も発展しています。
結論
椅子やデスクは単なる什器ではなく、人間の作業効率、健康状態、心理状態、そして行動様式に至るまで、多面的な影響を及ぼす重要な環境要素です。歴史的には権力と地位の象徴であった椅子は、現代ではオフィス環境や在宅勤務環境において、生産性や健康を左右する重要な要素となっています。
Andy Yapの研究が示すように、椅子やデスクのサイズは私たちの心理状態や行動にも影響を与え、特に権力感との関連が強いことが明らかになっています。物理的環境が人間の内面に与える影響を理解することは、より効果的で健全な職場環境の設計に役立つでしょう。
また、テクノロジーの進化により、椅子やデスクは単なる什器から、健康管理やバリアフリー支援、リハビリテーションなど、より機能的で目的に特化した道具へと進化しています。将来的には、個人の身体的・心理的特性に合わせたパーソナライズされた什器の発展が期待されます。